『映画を観る』ということ

せっかくブログという機能があるのだから

使っておいた方がいいと思い、備忘録的に書き留めることにします。

一応、創作論というくくりになると思います。

一言でいうと自分にとって『映画を観る』ということは創作とつながっている。



別に「俺は普通の観客とは違う視点で映画を観てるんだぜ?」という優越感に浸りたいからではない。

(ゼロとは言わないが、
こういう自惚れがない人間は創作はできないように思う)



自分も昔から映画が好きだったわけではない。

子どもの頃は、金曜ロードショーでやっているのを録画したりして、お気に入りのものがあれば見返す程度だった。

ビデオショップ(死語)に行けば基本的にアニメ特撮ばかり借りて、基本的に実写の映画には興味を示さなかった子どもだった。

(変な子どもだった)



ここで考えると、アニメはテレビシリーズが多い。
(もちろんアニメ映画もあるが)

それはつまり、「次回につづく」ということだ。

漫画もそうだ。

長期連載が珍しくなくなった今においては、次回につづく「引き」で基本的にその話は終わる。

もちろん完結しない作品はないし、作品においても「~編」のように分かれているものも多い。


しかし基本的に最終回を迎えるまでは、何かしら次回以降に向けた「引き」があるのだ。


ということは、子ども時代の僕のように

漫画アニメに浸っている人間というのは、

物語の「完結」をそれほど目にしていないのだ。



「え、別にいいじゃん」

まぁ言ってしまえばそうなのだが、

ことに何かしら物語を作りたい人間にとってそれは枷(かせ)になる。

簡単にいってしまえば、自分で創作したときに物語の終わらせ方がわからないのである。(それほど見てないから)



自分もこの状態に陥り、短編漫画を描くときに苦労した。

これではイカンと思い、大学時代に意識的に映画を観るようになったのである。

名作といわれる白黒作品もあえて観ることで、自分の中の物語の終わらせ方のストックを積み上げていった。



創作とは基本的に模倣だと思っている。

自分が観て感動したものを模倣する。

それを創作物としてアウトプットする際にズレが生じてオリジナリティが生まれると思っている。

(もちろんそのままパクるのは品がない行為である。)



でも根本は模倣で良いと思っている。

だから模倣するためには、自分の中に溜めなければならない。

物語の終わらせ方をストックするために物語の終わりを観なければならない。

その点で、映画はとても便利なのである。

2時間座っていれば基本的に物語が終わる。

だからこそ自分は映画を観るのである。




基本的に長時間、長期間 観客、読者を縛るのは制作側の愚であると思う。
(ブーメラン)

だからこそよりよい物語の風呂敷のたたみ方を見つけていきたい。

短ければこしたことはないのである。

だって明日も朝は早いのだから。



コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中